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一言法話

親鸞聖人の得度

 親鸞聖人は4才で父親と生き別れ(死別とも言われている)、8才で母親と死別しております。

 9才で出家・得度され、比叡山での修行生活に入られました。

 得度は京都東山の麓、青蓮院というお寺で慈鎮和尚によってなされておられますが、叔父に手を引かれ夕刻にお寺を訪ねたため、慈鎮和尚から「もう日も暮れたので得度式は明日にしましょう」と断られておられます。

 そのとき聖人が詠んだといわれる歌が次の歌です。

 明日ありと
 思う心の
 あだ桜
 夜半に嵐の
 吹かぬものかは

 満開の桜。明日も咲いているだろうと気楽に考えている私たちですが、夜中に嵐でも来ればたちまちに花は散ってしまうものです。人間も桜の花と同じように、明日の保証のない命を生きているのです。という意味の歌です。

 9才の少年が詠んだ歌とはとても思われませんが、伝説として残っている歌です。

 歌の心を理解した慈鎮和尚はすぐに得度式を行いました。

 現在も本願寺の得度式は夕刻、本願寺の閉門のあと、本堂を閉め切った暗闇の中でご門主の手により行われております。

 人生で一番厳粛な式であったと私は記憶しております。

 たぶん親鸞聖人のご苦労を偲び、親鸞聖人に恥ずかしくない僧侶となってくださいという歴代のご門主さま方の思いが込められているのだと思います。

 それにしても父親と生き別れ、母親とも幼くして死別し、修行のためたった一人で比叡の山に登ろうとする9才の少年の胸中に去来する思いはどのようなものであったでしょうか。

 後日、聖人は、法然上人に出会うまで「生死出離の道」を求めていたとご述懐なさっておられます。

 生と死を超える道とは、生への執着と死の絶望を超えるとてつもなく大きな世界のことであり、それは時空を超えたお念仏の世界でもあります。

 きっと聖人はお念仏という広い世界で父や母と心を通わせていたことでしょう。

 「死は永遠の別れではない」それが聖人の教えなのです。


他力の信心

 現在の東西本願寺(元は一つ)を発展させ、本願寺中興の祖と仰がれる蓮如上人ですが、本願寺留守織(門主)を継承するまでは相当のご苦労があったと聞いております。

 継承後も精力的に各地を訪れ85才で往生されるまで、布教活動に力を注がれた上人の足にはクッキリとワラジのヒモ跡が付いていたそうです。

 一代で多くの信者を誕生させ、また多くの寺院を浄土真宗に改宗させた上人ですが、集まる人の数や寺院数よりも、一人でもまことの「信心」を得ることが肝要であると述べられております。(御一代記聞書)

 蓮如上人当時は、毎月二度の法座には何千人・何万人と人が集まったそうですが「如来からたまわる信心」こそがもっとも大事であることを何度も繰り返し説かれております。(御文章)

 最晩年は「信心のない人とは会いたくない」とまで言い切られた蓮如上人。

 やはり浄土真宗は信心、それも「他力の信心」の宗教であることが明らかです。

 しかし、この他力の信心を物のように考えて「ある・ない」と判断することは誤りです。

 他力の信心は「ある・ない」といった世界を超えたものであり、思考や行動となって現れる性質のものです。

 私たちの信心は条件次第で「信じる・信じない」と判断するものですが、他力の信心は私の判断が無功(無意味ということ)で疑う余地のまったく絶たれた「もったいない・ようこそ・おかげさまで」としか表現しようがない心持ちをいいます。

 この「もったいない・ようこそ・おかげさまで」の言葉は逆縁も縁とする言葉で、自己を省みたときに発する言葉です。

 つまり自己を深く省みたときに成立するのが他力の信心なのです。

 逆に言えばいい加減なところで自己に妥協し、自己を省みる心が疎かなところに他力の信心は成立しないのです。

 また、この逆縁も縁とする他力の信心は、ご法義を聴聞する以外頂けないことも明らかです。


仏縁が重なって

 念のために申しておきますが、2003年6月から始まりましたこのコーナーは「一言法話」と書いて「ひとことほうわ」と読みます。「いちごん」でも「いちげん」でもありません。

 紙面の都合で長い法話が書けませんのでそのように名付けました。ご承知おきください。

 さて、皆さんは私たち浄土真宗本願寺派のご門主が書かれた「朝には紅顔ありて」(角川書店)という本をもうお読みになったでしょうか。

 浄土真宗の教えを浄土真宗以外の人にも理解できるよう平易な言葉で深く説かれた本です。

 今年の四月二十五日に初版本が発行され、すでに七版と版を重ねベストセラーになっております。本屋さんの新刊コーナーに平積みにされておりますのでぜひご一読ください。

 その本の中に「亡き人をいつも近くに感じるためには」という章があります。

 「人は死ぬと『お骨』と『思い出』が残るだけだ」という人に、「いいえ、私たちは、亡くなった方とともに生きていくことができます」と述べておられます。

 それは、仏さまとなられた故人のハタラキを、目には見えないが、水を温ませ、桜のつぼみを膨らませる春のハタラキにたとえられて、「私たちが、仏教の勉強をしたり、お寺へお参りをしたり、おつとめをしたりする、そうした仏縁が重なるなかで、感じられるようになってくるものなのです。

 亡くなった方のお骨や思い出は過去のものでしかありませんが、仏さまとなられた方とこころを通わせることは、現在も未来も、永遠に可能です。仏さまと私たちとは、常に一緒にいられるのです。」とお示しくださいます。

 大切な人を亡くされたことは深く悲しいことですが、それ以上に悲しいことは亡くなられた方を「過去のもの」としてしまうことではないでしょうか。

 仏さまとなられた故人のハタラキは永遠です。ご門主のご指摘のように、「仏縁が重なるなか」において常に自分と一緒に生き続けてくださっておられると感じられるのです。

 仏縁です。


親鸞さまと恵信尼さま

 親鸞聖人の妻、恵信尼さまのお手紙「恵信尼文書(消息)」が公表されたのは大正時代になってからです。

 末娘の覚信尼さまに宛てられたお手紙八通がそれで、そのうちの四通のお手紙によって親鸞聖人の御生涯と恵信尼さまとの関係が明らかになりました。

 今でこそ僧侶が結婚し、妻や夫を持つことは普通のこととなりましたが(在家仏教の浄土真宗は始めから認めている)、親鸞聖人の当時はとんでもないことでした。

 聖人は「死」の問題とともにこの「結婚」という問題も相当悩まれたようです。

 死の問題は阿弥陀仏に任せることにより解決しましたが、結婚の問題はそれまでの仏教では問題にもされないタブーでした。

 出家・在家に関わらず、あらゆる者をそのまま救うと誓われた阿弥陀仏の救いですので、結婚という問題も聖人の中ではすでに解決がついていたかも知れませんが、師の法然上人に確認するように尋ねております。

 おおよそ次のような質問です。
 「法然上人さま、上人さまはご結婚なさらずお一人の身でございますが、結婚についてどのようなお考えをお持ちでしょうか」

 法然上人は、
「私は結婚せずとも阿弥陀さまのお救いを喜ぶことが出来たが、世の中には結婚をし家庭生活を営むことによって深く阿弥陀如来のお慈悲を喜ぶことの出来る者もおります。結婚が阿弥陀如来のお救いを喜ぶご縁となるならば、それもまた尊いことだと私は考えているのですよ」と。

 結局、親鸞聖人は恵信尼さまを妻とし、当時の仏教界では考えられない家庭の中で家族とともに阿弥陀さまの救いを喜ぶ、在家僧侶の生活を選ばれました。

 わたしはこの法然上人のお考えと親鸞聖人の実践が非常に尊く思います。

 人間は十人十色・千差万別です。どのような生活をし、どのような生涯を送ろうとも、大切なのはその時その時のご縁や環境を、お念仏を喜びお念仏を申すご縁とさせていただくということです。

 恵信尼さまのお手紙にはご夫妻でお念仏を喜ぶご様子がありありと書かれております。


祇園精舎の鐘の声?

 平家物語の冒頭に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。」という有名な一節があります。

 隆盛を極めた平氏の落ちぶれ果てた姿を、諸行無常の真理として、比喩を使って格調高く綴ったものです。

 最初に登場する「祇園精舎」とは仏説阿弥陀経にも登場する祇樹給孤獨園のことです。

 古代インド、コーサラ国の王子ジュータ太子から、スダッタという長者が土地を買い取り、僧院を建てて釈尊に寄付したものと伝えられております。

 有名なこの平家物語。最初は琵琶法師などが謡っていたのを後に文字にしたものだという説がありますが、中学生の頃に国語の時間で冒頭だけは読んだ記憶があります。

 「祇園精舎の鐘の声」を実家のお寺にある梵鐘の音と重ねて想像しておりました。

 最近知ったことですが、当時の仏教教団には鐘を鳴らす習慣はなかったそうです。

 つまり、祇園精舎には日本のお寺にあるような梵鐘はなく、平家物語に出てくる「祇園精舎の鐘の声」はまったくの想像であったということです。

 この平家物語は源平の争いからずいぶん後になって複数の作者によって作成された物語であると言われており、登場人物との関係から法然上人の弟子数名も作成に関与しているという説もあります。

 真の作者は定かではありませんが、仏教の根本思想である「諸行無常」を、はかなく消えてゆく「鐘の声」「花の色」「春の夜の夢」に喩えられたのは見事です。しかし祇園精舎に鐘がなかったことを知らなかったのは残念でした。もし鐘があったとしても、超ド派手な鐘の音であったと判明すれば、平家物語も趣が違ってまいります。

 どちらにしても、諸行無常は厳然たる真理です。哀れさ、はかなさばかり強調されておりますが、成長も繁栄も諸行無常なのです。すべてのものは移り変わっている。それをどう受け止めるかは人間の勝手なのです。


仏としてのハタラキ

 先月、来恩寺の法話会や各種行事にいつも参加されていた方二人が相次いで亡くなりました。
 とても寂しく、せつない思いがありますが、この思いこそがご聴聞の縁であること、そしてお二人によって促される仏縁をヒシヒシと感じております。

 ところで私は16・7年前、北海道の函館別院に勤務しておりました。

 当時の函館別院は約1000軒の門徒を地域別に10区に分け、10人の職員がそれぞれの地区を受け持ち、月参りや法事などに毎日出掛けておりました。

 私の受け持ち地区の女性Aさんは、戦後、引き揚げの途中に娘さんを亡くしました。

 お仏壇の横にその娘さんの小さな白黒の写真がありました。毛布のような物にくるまって寝ている写真でした。

 私は、「何で起きているときの写真を飾らないのだろう」と不思議に思っておりましたが、後日、その写真は亡くなったときの写真であったことを知り驚きました。

 5才くらいの娘さんで、本当に寝ているとしか思えないきれいな顔をした写真でした。

 亡くなるまで写真を撮る機会がなかったのでしょうか。私には、亡くなった時の写真を残すことによって、当時の悲しみと親としての後悔が現在まで続いているような気がしました。

 引き揚げ時の様子をポツリポツリと話してくれるAさんには、娘さんに対して「ごめんね」という思いが溢れておりました。

 Aさんは人の大勢集まるところが苦手な方で、別院の法話会に誘っても来ることはありませんでした。

 先月亡くなられたお二人は、お連れ合いを亡くされたことがご縁で法話会に参加されておりました。お二人ともお寺に行くことを本当に楽しみにしておりました。

 私は、お二人の陰に、仏さまとなられたお連れ合いの大きなハタラキを感じておりました。
 故人を永遠の眠りにつかせてはならない。故人を悲しみと後悔の存在だけでその人生を終わらせてはならないと思います。

 残された者の責務です。


御一代記聞書

 本願寺第八代門主、蓮如上人の言葉を集めた『蓮如上人御一代記聞書』の中に「酒」という言葉が三ヵ所出てまいります。

 それは「蓮如上人あるいは人に御酒をも下され、物をも下されて、かやうのことどもありがたく存ぜさせ近づけさせられ候ひて、仏法を御きかせ候ふ」

 「御門徒衆上洛候へば、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。寒天には御酒等のかんをよくさせられて、路次の寒さをも忘られ候ふやうにと仰せられ候」

 また「炎天のときは、酒など冷せと仰せられ候ふ」の三ヵ所です。

 蓮如上人は訪ねてくる門徒衆に、酒を与えたり物を与えたりして親しくなり、仏法を聞かせていたそうです。

 また、寒いときにはお酒の燗を出し、暑いときにはお酒を冷やして出させていたということです。

 まことに至れり尽くせりのご接待ですが、こんなところに蓮如上人のお人柄が偲ばれるような気がいたします。

 もう一つ蓮如上人のお人柄で有名なのは「平座」の精神だと思います。「平座」とは僧侶も門徒も区別なく、ともに凡夫の立場で話をしたり行動をするということです。

 特に浄土真宗は他宗派のような師弟関係を持ちませんので、時には笑いながら、時には同悲の涙の中で語り合うことが出来るのです。

 歎異抄九条の唯円坊さまの親鸞聖人に対する「阿弥陀さまの救いが喜べない、まだまだ死にたくないがどうしたものでしょうか」という素直な質問も、師弟関係を超えた裸の人間関係から発せられた質問だと思います。

 自力聖道門の師弟関係の中では「いつ死んでもいいと思え」といった師の言葉がありそうですが、親鸞聖人は「唯円坊よ、私も同じ気持ちなのですよ。でもそんな者をまず救いたいと誓われた阿弥陀さまのお慈悲がありがたいですね」と答えられたのです。

 浄土真宗は「平座」です。


今年の漢字


 毎年年末に「今年の漢字」というものが発表されますが、去年の漢字は「虎」でした。阪神タイガースが優勝したからでしょうが、ちょっと単純すぎる気がします。

 1995年は「震」で、その後「食」「倒」「毒」「末」「金」「戦」「帰」と続いて2003年は「虎」になったのでした。

 なんでこの字が選ばれたのだろうと出来事を思い出せない漢字もありますが、「金」と「虎」以外は不幸な出来事の象徴といった漢字だと思います。

 ところで浄土真宗のキーワードは「悪人正機」「他力本願」「往生浄土」だとよく聞きますが、この言葉で内容が分かる人は少ないと思います。

 浄土真宗は聴聞(教えを聞くこと)の宗教ですが、自分を離れて聴聞していては阿弥陀如来の救いは理解できないのも当然ですし、混乱することと思います。

 親鸞聖人は自己を徹底して見つめられたお方です。阿弥陀如来の救いを他人事として考えられたのでなく、自分の身に引き当てて受け止められたのです。

 聖人は歎異抄に「阿弥陀さまの本願をよく考えてみれば、ただこの親鸞のためにあるとしか考えられない。そして、過去も現在も、そして未来ですらも悪を作り続けるこの私を救おうとの誓いがありがたく、またかたじけないとしか言いようがないのだ」と述べられております。

 誤魔化しようのない自分の本当の姿を見つめたとき、「悪人正機」の悪人とは自分のことであったと知らされ、「他力本願」という如来の願いが自分のためであったと慶べるのです。

 この慶びが「往生浄土」という救いの定まった者の上に成立する世界なのです。

 誰にも打ち明けられない自分の心の醜さを誤魔化すことなく見つめたとき、浄土真宗のキーワードが実に明確になります。

 今年の漢字は「信」にしましょうか。


マインドコントロール


 人間は環境によってどうにでも育つ生き物です。

 極端な例ですが、犬や猫は誰に育てられても犬や猫としてしか育ちませんが、人間はオオカミに育てられるとオオカミのように育ちます。

 これは人間の成長にとっていかに環境が大事かということを示しておりますが、環境は一種のマインドコントロールだと私は思っております。

 マインドとは心や思想のことです。小さな頃から「男らしく、女らしく」と育てられると、「叱られたくない、褒められたい」と思い、そうなるように努力し自分の心をコントロールするのが人間です。

 あるいは幸せになれないのは努力が足りない、信心が足りないからだとマインドコントロールする宗教があります。否、ほとんどの宗教がそのようなことをいっております。

 そのような場合の努力や信心は自力のことですが、このマインドコントロールは自力を尽くして努力したり信心すれば願いが叶うといったもので、ほとんどすべての人が小さな頃からこのコントロールを受けております。ですから入信した宗教で同じようなことを聞いても誰も疑問を持ちません。逆に納得するのです。

 またその宗教に疑問を持ち離れようする人がいるとすると、堕落者というレッテルを貼られ自己嫌悪を起こすほどののしられたり「地獄に堕ちる」などと脅かされたりします。「すべてあなたのためなのよ」といった理由で。

 そもそも「幸せ」が欲の延長線にある宗教は仏教ではありません。お釈迦さまは幸せを欲が叶うこととは説いておられません。

 お釈迦さまは自己にとらわれることからの解放に幸せを見つけられたのです。

 自己のとらわれから離れるための努力(多くは気づき)は結構ですが、努力という自力の持つとらわれの心には十分注意したいものです。

 努力できるのもご縁がそろったからです。そのご縁に感謝出来る者こそ幸せ者なのです。


多用でもご聴聞を


 二月の十六日(月)からの一週間は会議や研修会で非常に多用でした。

 十六日は来恩寺の所属する鎌倉組(十五ヵ寺)の僧侶研修会があり、十七日は同じく鎌倉組の仏教婦人会研修会、十八・十九日の両日は東京教区(一都八県)の基幹運動役職者合同協議会、二十日は住職も役員となっている東京教区布教団の公開講座と役員会、それから同じ日に築地本願寺の二法要(降誕会と報恩講)の布教部会議があり、二十一日は来恩寺の法話会でした。

 住職が鎌倉組の相談員となっているため、どの研修会や会議にも出席しなければならず、身体が二つも三つも欲しいと思いました。

 しかしながら多用ではありましたがいろいろと勉強できますのでちょっと得をしたような気になります。

 仏教婦人会の研修会は普通男性に参加資格はないのですが、組の相談員ということで参加させていただき、「婦人」という名称の持つ問題性(性差による役割分担や主に既婚者を指す言葉であることなど)を学ばせていただきました。

 また、本願寺派の旧態然とした女性観に基づいた婦人会綱要の問題についても学ばせていただきました。

 行政や一般社会では「婦人」という名称は現在「女性」に改められているようですが、伝統ある本願寺派の仏教婦人会ですので、この名称を改めるのには賛否両論あり、なかなか難しいところがあります。

 僧侶研修会では男女及び僧侶と門徒の共同参画の問題や課題の共有などについて学ばせていただき大変有意義な研修会でした。

 皆さまも何かとご多用とは存じますが、研修会や法話会にはぜひご出席いただければと思います。

 今月は彼岸会法要、来月は聖典に学ぶ会と花まつりボウリング大会そして永代経法要を来恩寺では予定しております。鎌倉組の行事につきましては法話会のときに皆さまにお知らせしたいと思います。


「何のために…」


 神戸の連続児童殺傷事件で、当時少年だった加害男性の仮退院を受け、殺害された山下彩花ちゃん(当時10才)の母京子さん(48才)が3月10日発表した加害男性と私たちに向けた談話の一部です。

「現実社会は決して甘くはありません。そして、平穏な日々ばかりの人生ではないでしょう。それでも、人間を、生きることを、放棄しないでほしい。それこそがわたしたち遺族の「痛みと苦しみ」を共有することになるのです。
 なぜなら、わたしたちも悪戦苦闘しながら嵐の中をもがき、自分の道を歩いているのですから。
 子どもがかかわる事件が起こる度に、子どもを取り巻く最大の環境であるわたしたち大人が、いま一度『自分は何のために生きているのか』を真剣に問い直さなければならないように感じます。そして、行き詰まった死生観を立て直すことや、『子どもの幸せのための教育とは何か』を深く考えていくことが根本的な解決の方法ではないかという感を強めています。」

 母親の京子さんと私は同い年です。しかし大切な子どもを殺された親の心情は、想像は出来ますがやはり当事者でないと分からないと思います。

 でも『自分は何のために生きているのか』を問い直すことや、「行き詰まった死生観を立て直すことや『子どもの幸せのための教育とは何か』を深く考えていくことが根本的な解決の方法ではないか」との提言は共感できます。

 また、加害男性にむかっては「生きることを放棄しないでほしい」と願っております。

 最近、被害者の「犯人を死刑にしてほしい」といった言動をよく耳にしますが、京子さんはまったく逆です。

 私たちは京子さんから「人生の目的」と「死生観」「真の教育」そして「痛みと苦しみ」といった課題を突きつけられたような気がいたします。皆さんも考えてみてはいかがでしょうか。

 お釈迦さまと親鸞聖人は答えを見つけました。


「恥じる」


 秘書給与問題や学歴詐称・国民年金未納など国会議員の皆さんの疑惑が次々と明らかになっております。

 今月の真宗用語の基礎知識で「慚愧」について書きましたが「恥じる」ということを知らない人たちが私も含めて増えてきたように思います。

 この「恥じる」ということを徹底しますと「許容」という心が生まれてくるような気がいたします。つまり「お互いさま」ということです。

 最近、私は小さな頃から回りの皆さんに許されて生きてきたような気がいたします。

 生まれたときからオッチョコチョイであった私は、物を壊したりする失敗が時々でなく頻繁にありました。

 でも回りの大人たちはいつも「こんな所に置いていた私が悪かったのよ」とかばってくれておりました。もちろん置いていた者になんの罪もありませんが、ふざけていて壊してしまったりする私の失敗を笑顔で許してくれるのです。

 「こんなところに置いていた私が悪い」という言葉は小さな私の胸にも響きました。「縁」という言葉を教えてくれていたような気がいたします。

 また、小さな頃は「恥ずかしい」という言葉をよく聞いた気がいたしますし「恥ずかしくないの?」「もったいない、バチがあたる」と言われたものでした。

 「もったいない、バチがあたる」という言い方は本当に仏罰があるとかではなく、「縁」のことを言っていたのだと思います。物を粗末に扱っていると性格も悪くなり、生活も乱れてしまう。そのことが結局は「バチ」であり自分に降りかかってくるということなのだと思います。

 妙好人の皆さんに共通することは「もったいない、ようこそ」といった生活態度ですが、この姿勢の背景には「お恥ずかしい自分」という内省があることです。そしてその内省から「お互いさま」という「許容」の心も生まれてきたのだとおもいます。


「連研」


 本年10月から鎌倉組第8期「連研」が開催されます。

 連研とは「門徒推進員養成連続研修会」の略で、門徒推進員とは僧侶と共にお寺や宗派の活動(基幹運動)を推進する門徒のことです。

 このように書くと難しくなってしまいますが、簡単に言いますと「お寺や組の行事を企画の段階から参加して盛り上げてちょうだい」ということです。

 そんな人を育てる研修会が連研で、二年間で十二回開催され、連研を修了されますと本山で三泊四日の中央教修を受けて「門徒推進員」となります。

 来恩寺では現在5名(男性1名・女性4名)の門徒推進員さんがおりますが、皆さんお寺や組の行事に関わっていただいております。

 連研は2ヶ月に一度、偶数月の第1土曜日午後に開催され、会場は鎌倉組(15ヵ寺)のお寺を順番にまわっており、来恩寺ではお寺のワゴン車で皆さんを送迎しております。

 研修の内容はテーマを決めた話し合いが主で、身近にある迷信やお仏壇のこと、浄土真宗の作法や歴史など、門徒としての基本的な事柄をみんなでワイワイガヤガヤと話し合います。

 最後に話し合いの内容を中心にした講師のまとめの講義があり、いろいろな疑問や問題が解消されます。

 話すのが苦手な人は、いろんな人の意見を聞いているだけでも勉強になりますので、皆さん「参加してよかった」と喜んでおります。

 また、組内の寺院をまわって開催されることも好評で、それぞれのお寺の活動状況や、住職さんや坊守さんの個性も分かりますのでおもしろいと思います。

 来恩寺では住職や坊守の相談相手である門徒推進員となっていただくため、連研受講生を募集いたしております。

 八月末が締切ですので、お寺に来られた時や盆参りにうかがった時にお声を掛けてください。みんなで来恩寺を楽しいお寺にしましょう。


「(仮称)がん患者と家族語らいの会」


 7月18日(日)午後2時から横浜市戸塚区矢部町の善了寺(成田智信住職)において「(仮称)がん患者・家族の会」(ビハーラ鎌倉)の発会式を行います。

 ご講師は兵庫県姫路市善教寺住職の結城思聞師(松倉悦郎元フジテレビアナウンサー)です。

 この会は来恩寺と善了寺の共催で行うもので奇数月が善了寺、偶数月が来恩寺を会場に毎月一回開催いたします。

 第一回目は「発会式」とし、講演を聴いたのち今後の会の進め方などを協議したいと思います。
 来恩寺住職は「浄土真宗東京ビハーラ」の会員ですが、毎月第二土曜日に築地本願寺で開催されている「がん患者・家族語らいの会」には法事等の関係でなかなか出席できませんので「それなら自分たちで行おう」と善了寺さんと合同で開催することにしました。

 私が提言するこの会の趣旨は「がんなどを通していのちの真実に目覚めよう」というものです。私たちは「いのち」を勝手に解釈して喜んだり悲しんだりしておりますが、がん患者の中にはがんという事実を通して「いのちの真実」に出会われた人々が大勢おられます。そんな方々の著書を手がかりとして、意見や思い、悩みや喜びをみんなで語り合いたいと思います。

 今回発会するこの会は、仮称として「がん患者・家族語らいの会」といたしますが、がん患者やその家族以外の皆さまも参加できますのでぜひお友だちを誘ってご出席ください。

 初回は参加費無料といたしますが、協議によっては会の充実のために有料(1回500円ぐらい?)になる可能性もあります。

 準備の都合上、参加ご希望の方は毎月15日までに来恩寺へお申込みください。第2回目は8月22日(日)午後三時に来恩寺もしくは茅ヶ崎駅周辺の施設において開催いたします。

 善了寺さんは戸塚駅から徒歩4、5分です。詳細は来恩寺へお問い合わせください。


「二字法名」


 以前、このライオン寺だよりにシリーズとして掲載しておりました「仏事の迷信Q&A」にも書きましたが、浄土真宗の法名は釋○○という二字法名です。

 以前は女性だけに釋尼○○と尼の字が入っておりましたが、現在、本山では付けておりません。一般寺院では今も尼の字を付けている寺院もありますが、法名に男女の区別の必要があるのかと議論になり、本山は尼を外すことにしたそうです。

 一般寺院には居士・大姉・信士・信女といった位号を付けている寺院もあるようですが、これらは明らかに家柄や門地・職業などで差別してきた歴史を容認することですので即刻改めてほしいものです。

 今なぜこのようなことを書くのかと言いますと、故郷のお寺で法名を付けてもらい、こちらで通夜や葬儀をする家が最近でも結構あり、ほとんどの法名に位号が付いているからです。

 ご門徒の人で位号に含まれる差別性に気づかれる方はまずおりませんが、来恩寺にご縁のある皆さんはぜひ「位号は差別である」「長い法名や戒名の方が値打ちがあると考えるのは間違いである」ことを一般社会に浸透させていただきたいと思います。

 そしてぜひ生前にご本山で帰敬式を受け、ご門主より法名いただいてほしいと思います。帰敬式の冥加金(費用)は成人ですと一万円、未成年は五千円となります。

 差別的な法名を前にして来恩寺住職が心を痛めながら法事を執行していることをご理解いただければと思います。

 たまに本来の二字法名を付けてファックスで送ってくださるお寺がありますと感激します。故人が良心的なお寺とご縁があったことを嬉しく思いますし、来恩寺としても「一生懸命お取り次ぎをさせていただきます」という気にもなります。

 故人の法名に位号が付いておりますご家庭は住職にご相談ください。


「連研」2


 来恩寺の所属する鎌倉組では、10月から2年間12回に亘って第8期「門徒推進員養成連続研修会」(略して「連研」)を開催します。

 主に偶数月の第1土曜日午後に鎌倉組内の各寺院を会場として開催しますが、簡単にその内容をご説明いたしますと、@開会式、A講師による問題提起、B班別の話し合い、C班の意見発表、D講師によるまとめの講義となります。

 毎回テーマを設けて話し合いがなされますが、現在は宗派が発行している「連研ノートD」を用いております。

 「連研ノートD」は話し合いのきっかけのためのノートで、例えば

 『友引にお葬式をしたらまた人が亡くなりました。みんなが悪いということはしない方がよいのではないでょうか。』といった設問があり、その内容として

(ア)なぜお葬式の帰りに塩をまくのですか。

(イ)お墓を造りたいのですが、その時期はいつがよいのですか。

(ウ)家に不幸が続きますが、先祖の祟りだと言われましたがほんとうにそうなのでしょうか。

 といった話し合いを進める上でのきっかけのような質問があります。

 ノートの内容に沿って話し合いが行われますが、内容から外れて個人的な悩みや思いを話してもまったく問題はありません。

 皆さん最初は緊張で固くなっておりますが、回を重ねるたびにうち解けて和気あいあいとした雰囲気で話し合いを楽しんでおります。また鎌倉組のお寺巡りも好評です。

 最後のまとめの講義で納得して帰られる方が多いのですが、納得できなければ所属寺の住職さんとゆっくり話し合う人もおります。

 生活の中にある迷信や習俗を話し合う研修会ですので、疑問が解消されると結構おもしろいと思います。

 どう、参加する気になった?


「報恩講法要」


 親鸞聖人のご命日法要「報恩講法要」が勤められる季節になりました。

 親鸞聖人は旧暦では11月28日、現在の暦では1月16日に数え年の90才で往生されておりますが、私たち本願寺派では新暦を採用し、本山「西本願寺」では1月9日から16日まで法要を勤めております。

 全国の別院や寺院では「お取り越し」といって本山に先立って法要を勤めております。ちなみに築地別院(築地本願寺)では11月10日から16日まで。来恩寺では毎年11月の第三土曜日を報恩講法要の日と定めております。

 住職が子どもの頃はお寺の報恩講法要のことを「お七夜」と呼んでおりました。大人も子どもも毛布などを持ってお寺に集まり、夜遅くまで法話を聞いていた記憶があります。

 現在は三日間ほどに短縮されましたが、娯楽の少なかった当時はお寺に集まるのが皆さん何よりの楽しみであったようです。

 来恩寺は門信徒が近所に少ないため夜の法座は開けませんが、機会があれば夜の静けさの中で法要を勤め、親鸞聖人の御苦労と御恩をしみじみと考えてみたいものです。

 それから、京都はちょっと無理かも知れませんが、築地本願寺の報恩講への団体参拝も考えております。

 築地本願寺は収容人数が800名ですので、ライオン寺だよりの発行部数の1300人は無理としても200名のバス四台ぐらいで来年は参加したいと思います。

 それよりも来恩寺の一番大切な法要である報恩講に200名を集める方が先だと思いますのでぜひ皆さんお集まりください。住職として親鸞聖人への報恩行は、一人でも多くの方に阿弥陀如来の大きな慈悲の心を知っていただくことだと思っております。

 今年のご講師は滋賀県の瑕丘大愚先生です。きっとまた笑いと感動のご法話をしてくれることでしょう。

 ぜひご参拝ください。


「無限の努力 無限の善行」


 善行を行い善人になろうと努力する人がおります。また、そのように教え、実践することを奨励する宗教があります。

 それはそれで尊いことだと思いますし、その努力や善行を否定しようとは思いません。

 しかし努力や善行を誇ったり、努力しない人を批判するようになっては、どんな努力や善行も無(ゼロ)になるような気がいたします。否、無どころか負(マイナス)になってしまうと思います。

 努力や善行を行うことは何ら問題がありませんが、私たちには「我執」という煩悩がありますので「したこと」「やったこと」にいつまでも心を奪われてしまいます。

 「電車で席を譲ってやったのにお礼がなかったので腹が立った」「親切にしてやったのに裏切られた」などの言葉をときどき耳にします。最初は「お礼の言葉」や「恩返し」を期待して行った行動ではないと思うのですが、いつの間にか自分の行動に執着して、そのようなお礼や恩返しを期待してしまう私がおります。

 また「すべての人に愛の手を」と叫んでみても、どうしても自分を中心にした家族と赤の他人とでは愛情の度合いが大きく違います。すべての人に愛の手を差しのべられたらどんなに素晴らしいことかは理解できますが、「我」を中心とした世界に「執着」している自分に気づきます。

 もし神や仏が善人になることを期待し、善人のみを救うのであれば善人になれない自分は救われないでしょう。

 阿弥陀仏の救いには「善人になれ」などという条件がないことに親鸞聖人は気づきました。そして「条件なし」の救いには、逆に「これでよい」という上限もないことにも気づかれました。

 ひょっとして、阿弥陀仏の救いには無限の努力と無限の善行への期待が含まれているのかも知れません。

 無限であるが故にその行動を誇ることも出来なければ、他を批判できるはずもないのです。

 すべておかげ様です。


「除夜の鐘」


 住職は大晦日が近づくといつも「梵鐘が欲しい」と思います。

 梵鐘とは大晦日と元旦をはさんで撞く「除夜の鐘」で有名ですが、大晦日だけでなく、本来は法要の一時間前に法要のあることを知らせるために撞く「集会鐘」のことです。

 住職の実家のお寺には立派な鐘楼(鐘撞堂)と梵鐘がありましたので、毎日朝夕に撞いておりましたし、小学生の頃は童謡の「♪山のお寺の鐘が鳴る」のように梵鐘の音で「あっもう帰らなきゃ」と時刻を知ったものです。

 梵鐘はあればあったで毎日決まった時間に撞かなければなりませんので厄介なものですが、せめて大晦日の除夜の鐘ぐらいは撞きたいものです。

 一般的に除夜の鐘は「一年間の煩悩を払うために撞く」とか言われておりますが、住職はいざ知らず、皆さんの日ごろの煩悩が鐘を撞いただけで払われるとは到底思われません。

 そんなことを理由に鐘を撞くのでなく、「除夜の鐘」という日本人の心に深く染みこんだ感性をご縁として、多くの人と仲良くなりたいのです。

 実家のお寺の除夜の鐘撞きには毎年近所の人が大勢集まります。子どもの頃は事前に碁石を百八つ数えておき、まず父である住職が最初の鐘を撞き、その後、集まった人たちが鐘を一回撞くたびに一個ずつ碁石を減らしていくのが私の役目でした。

 紅白が終わり、午前0時を過ぎてもたくさんの人が関西弁で「おめでとうさん」と言いながら集まってくる姿がいまだに忘れられませんが、除夜の鐘をご縁にして新年の挨拶の出来ることが素晴らしいと最近思うようになりました。

 最後の百八つ目は子どもたちみんなで撞木のヒモを持って撞くのですが、ある年の鐘撞きでは最後の一打を撞いたとたんにヒモがブチッと切れてみんなで大笑いをした記憶があります。

 梵鐘から尊いご縁をいただいていたんだと思います。


「本山スス払いの報告」


 西本願寺の「スス払い」参加の報告です。

 12月20日午前5時30分、梵鐘(集会鐘、通常は行事の一時間前に撞く)と喚鐘(行事鐘、通常は行事の直前に打つ)が同時に鳴らされる中、開門もまた同時刻という超変則的な日程で本山のお朝事が始まりました。

 総御堂での勤行は讃仏偈と正信偈六首引きでしたが、御文章の拝読と御堂法話はありませんでした。

 参拝部分室で頭に手拭いを被り、マスクと軍手それから使い捨てカイロをもらってスス払いという決戦の時を待っておりました。

 6時45分、竹の棒や大きなウチワを持って再び総御堂に集合し、ご門主の登場を待ちます。

 7時、ご門主がワラで編んだ大きなぞうりを履いて白布で覆われた阿弥陀さまの宮殿と親鸞聖人のお厨子を、これまた大きなホウキで何回かススを払うと一斉にスス払いが始まりました。

 竹の棒で畳を打ち鳴らして埃を畳から出す者、その後ろから大きなウチワを扇いで埃を外へ追い出す者、本願寺の職員は高い欄間や天井から吊り下げられた大きな金灯篭に積もった埃を落とします。

 竹の棒と大きなウチワが総御堂の畳を何往復かして第一作業が終了。また参拝部分室に戻り本願寺が用意してくれた朝食(おにぎり二個と豚汁)をいただきます。(この間に舞った埃が下に落ちてくる)

 第二作業は濡れ雑巾で畳や外の縁・欄干を拭き、最後に乾いた雑巾で乾拭きして約2時間の全作業は終了しました。

 感想は「面白かった」です。

 テレビに映ろうと企画したスス払い参加でしたが、テレビに映ったのを確認できたのは長女の映美だけでした。

 7、8台のテレビカメラが映美を取り囲んでおりましたので映ることは確信しておりましたが、他のメンバーは手拭いで頬被りしてマスクを着けていたので誰が誰だか分かりませんでした。トホホ…。

 次回は派手な格好で参加しようと心に決めた私です。


「吾子の死で真実のみ教えに出遭う」


 鹿児島教区仏壮連盟理事長  茶屋征夫さん(全国仏壮会報第42号より)

 もう30年程前の話で、私たち夫婦に初めての子どもが誕生したときの事です。立派に成長するようにと願いを込めて名前を付けました。ところが友人のすすめでその名前の姓名判断をしたところ、この名前は画数が悪く親子の縁が薄くなるとの事で仕方なく別名を付けたのでしたが、この子が三才の時、交通事故に遭い即死したのです。

 このことがあって先祖代々薩摩の厳しい念仏禁制の中、お念仏を心の拠り所として命を懸けて守り相続してきた家に生まれ育ちながら、真実のみ教えを聞こうとしてこなかった自分に気が付いたのです。

 このことをご縁としてお寺での聴聞を心がけるようにしました。
 死んだ我が子に対する往生の願いと、慚愧の気持ちからのお聴聞でしたが、聴聞の中で「念仏は祈りではなく、感謝である」と聞かされてその意味を理解するまでに長い時間を要しました。

 今では、お念仏は絶望を希望に、悲しみを喜びに転じさせてくれます。この子の死はつらく悲しいものではありましたが、生きる勇気と希望を与えてくれました。そして命に代えて私を真実のみ教えに導いてくれたのです。もしこの子の死がなければ未だに真実を疑い、迷信に明け暮れていたかと思うと、もったいなさとありがたさに両の手を合わすことであります。

 私に限らず、真宗門徒とはいいながら吉凶を占ったり、自分に都合のいい事を祈願したりしていないでしょうか。念仏のお同行で昔から船に祭ってあった神棚をはずし、替わりに阿弥陀様を安置して、同業者から変わり者扱いされながらも自分の信仰を貫いている漁師もいます。

 かと思えば、正月お寺参りの後、神社祈願に行く門徒さんのいることも事実です。これが悪いこととは言いませんが、私たちがたのむ御本尊は阿弥陀様一仏であること、そして歎異抄にいう「念仏者は無碍の一道」また親鸞様が和国の教主と褒め称えられた聖徳太子の「世間虚仮 唯仏是真」の言葉をわが心と受け止めてお念仏の中に日々を送りたいものだと思います。


「来恩寺って良いお寺」


 来恩寺の本堂裏に寺務所が完成しました。お寺ですので事務所でなく寺務所です。神社ですと社務所となります。

 住職の方針で「住職の目の色が黒いあいだは、強制的な寄付は一切ありません。でも、ある日突然住職が白目をむいて歩いていたり、カラーコンタクトを着けだしたらご注意ください。」とホームページなどで宣言しているとおり、寄付の依頼をしませんでしたら、先日、一人の総代さんから意見を言われてしまいました。

 「住職、来恩寺は我々門徒のお寺ですので寄付をさせてください。お寺のために何かしたいと思っている門徒も大勢いることを忘れないで欲しい。」という趣旨のご意見でした。

 法話会に参加されているご門徒の意見を代表してその総代さんが私に言ってくれたようですが、皆さんがお寺に対してそのような意識を持っていただいていることに驚くと共に、大変ありがたいことと受け止めさせていただきました。

 日本広しといえども、寄付を取らないことで文句を言われる住職は私ぐらいだと思いますが、そんな門徒さんたちを私は誇りに思いますし、ますます大事にしたいと思います。

 総代さんや世話人さんたちと相談して、法話会に来られない方々の中にも寄付をしたいという人がいるかも知れませんので、このライオン寺だよりでお知らせすることになりました。

 強制ではありませんので自由意志でのご寄付をお願いいたします。しかし、多額のご寄付をしてくださる人がいるとお寺としてもどのように対応していいものか悩みますので一応5千円位とさせていただきます。

 寄付の金額や氏名を書いた紙をペタペタと本堂に張るような趣味は住職にはありませんので、氏名や金額は公表いたしません。

 皆さんのご寄付は建物の建設以外にも、奨学金や将来の福祉関係の活動に使用させていただきます。皆さんに来恩寺の門徒で良かったと思われるような使い方をしたいと思います。

 何度も申しますが、強制ではありませんので寄付したいと思う人だけご寄付ください。今回は止めて次回何かあったときに協力しようと思う人も大歓迎です。

 つくづく「来恩寺って良いお寺だな」と自画自賛する住職でした。

「心にしみ入るご住職の話」

   山口市 上村清美氏

 平成15年の師走末に妻が71歳で往生し、深い悲しみに陥ったまま越年しました。悲しみにくれながら、葬儀の後始末を多くの人に手伝っていただき何とか終えることができました。

 葬儀以後、徐々に弔問客も数少なくなっていくなかで、それとは反比例するように、私の心の中には、生まれてこの方初めて知ったどうしようもない寂しさと、挫折感、そしてそれにも増して妻への追慕と罪滅ぼしの思いが、日に日に募るばかりでした。

 1月末日、やがて近づく四十九日法要の打ち合わせのため、所属寺の養元寺の門をくぐりました。朝の本堂はまだ人影はなく、お寺特有の荘厳な雰囲気が漂っていました。本堂に足を進めると、寒気がみなぎっていました。

 私は普段お参りしているときのように阿弥陀如来に手を合わせようと、内陣に近づいていきました。その時のことでした。目の前におられる阿弥陀如来の近くから、亡き妻がニコニコほほえみ、やさしく私を見つめてくれているように見えたのです。とっさのことでしたが、私は思わず心の中で妻の名を呼び、その後は子どものように声もはばからず泣きました。

 その時私は思いました。お寺に来たら、いや阿弥陀如来を通して、また妻に出会うことができると。妻が往生してから1ヵ月。家の中を探しても妻は見当たりませんが、私を阿弥陀如来に出会わせるためにはたらいてくれているのです。

 まもなく、ご住職と坊守さんが来られたので、私は涙ながらに、たった今妻と再会したことをお話ししました。するとお二人とも目をうるませながら、何回もうなずいておられました。その後、ご住職から「人の死と仏縁の尊さ」について丁重なお話をいただきました。

 日頃は信仰心薄く、世俗のことばかりに執着している私です。しかし、このたびの経験が、ご住職のお話にも真剣に耳を傾けさせ、心深くにしみ入らせてくれたような気がしてなりません。

  (本願寺「大乗」2005年4月号「読者応募原稿」より転載)

「当たり前が有難い」


 岩手県沢内村の村長を長く務めた太田祖電師は、特別養護老人ホームの人々のお念仏に触れた生き方を讃え、「老いを越える道、病気を越える道」を語っておられます。

 右半身不随でホームに入ってきたおばあさんは、入所した当初動かぬ右手をさすって嘆き悲しんでばかりでした。ところが、同じように不自由な状態の仲間の中に生き生きした輝く眼をしている人がいることに驚き心を動かされました。

 ある日、寮母さんが部屋に入っていくと左手を壁にあてて泣いていました。「どうしたの?」と聞くと「今朝ハッと気づきました。今迄右手右足の不自由ばかり見つめていたけれど、左手が自由に動くことにびっくりしました。動くことが〈当たり前〉でなく〈有難い〉ことだと分かりました」「み仏さまの教えによって、〈当たり前〉が〈有難い〉と心の方向転換できました。このこと一点に気づかせてもらうために私の人生の全てがあったような感じです。人生の苦しみ・悩みは、全てみ仏さまの励ましでした。私の一生は幸せでした」と語って下さったのでした。太田師はお寺の本堂に「災難を逃れるための念仏ではない。どんな災難をも引き受ける力が念仏である」と書いたそうです。

 あなたは、この話を我が事と受け止められますか?この感受性をトレーニングする(鍛える)のが、仏法聴聞です。

  東海教区 三重組 善正寺 「善正寺だより」より

 自分の尺度でものごとをはかって、不平不満を募らせ、また他を批判し、ときには到らぬ自分を責めたりしがちなのが私たちです。

 仏教はそうした自己中心的な発想を百八十度転回させた視点で私を見つめる教えなのです。

 ここで上げられている話のように「当たり前」が「有難い」に、また「私の願い」から「私への願い」に、「地球にやさしく」から「地球が私にやさしかった」ことに気づく教えといえましょう。

 自分がどれだけ多くの願いに生かされ、今も育まれ続けているか、気がつけばきっと人生は輝いてくることでしょう。

   コメントは末本弘然先生

  (本願寺ホームページより)

「智慧の目」


 「仏説無量寿経」というお経の中に五つの眼と書いて「五眼(ごげん)」という言葉が出てまいります。浄土に生まれる者に備わる五つのまなこのことで、その中のひとつに「慧眼(えげん)」があります。智慧の目のことで自分の本当の姿を知る内側を見る目のことです。

 カーナビの付いている車をお持ちの方はよくご存じと思いますが、カーナビは全国のロードマップを表示してくれますと同時に、自分の車の現在地も教えてくれます。

 いくら詳しい地図をカーナビが表示してくれても、現在地を教えてくれなければ、特に初めての土地や目標物のない山の中などでは私たちは迷ってしまうことでしょう。

 ホテルや旅館の避難図も同じことです。非常口が大きく赤い色で書かれていても、自分の部屋がどこにあるのかが分からなければ、いざというときの役に立ちません。

 私たちは最新で詳細な地図を何十冊と持っていても自分の現在地が分からなければ地図を利用することはできないのです。

 詳しい地図や避難図は外の情報、つまり私たちの知識です。知識は多く持っていることに越したことはありませんが、自分に合った使い方をしなければ無駄になりますし、邪魔になる場合もあります。

 智慧の目「慧眼」は自分の現在地、本当の姿を知る目ですが、自分で自分の本当の姿を知ることは大変難しいことです。私たちは褒められれば喜び、過ちを指摘されれば反発いたします。自分に都合のよいことは認めますが都合の悪いことは認めようとしないのです。

 仏法を聞くということは自分の本当の姿を知るということですが、それは内と外を同時に見ることのできる仏の目「仏眼(ぶつげん)」に映し出された自分を知る以外には不可能です。それが仏法聴聞ということです。

 私は、仏法聴聞は人間の価値観、特に自分自身の思い込みを壊され、仏の価値観に生きることだと思っております。

 仏の目「仏眼」はありのままをありのままに見ることのできる「如実知見」の目のことです。自分の都合で物事を見、優劣・善悪などの判断をする私たちの目とはまったく次元の異なる目なのです。

 ぜひご聴聞を。

「味のある言葉」


 「たくさんの言葉より ただ一言でよい、真に味のある言葉がききたい」

 重病の方をお見舞いする時、どんな言葉を掛けたらよいのか?私はいつも戸惑ってきました。多くの場合「元気になって下さいよ。頑張って下さいよ」という言葉でした。しかし、ある時「わし、一生懸命頑張ってるつもりやけど、一向にようならんのや。どうすりゃええんかのう…」とつぶやく言葉を聞いて胸を突かれ、返す言葉を失いました。「また会いたいなあ。会いに来るからね…」、そんな気休めの別れが悔やまれるのです。

 「味のある言葉」とはどんな言葉なのでしょう。徳川家康が諸国の大名から各地の味自慢を聞いていた時のエピソードがあります。大名の自慢話を聞き終えた家康が、傍らに待っていたお梶の局に向かって「そちはどうじゃ」と尋ねたところ「塩でございます」と彼女は答えた。次に「まずいものはどうか」と尋ねると、彼女はやはり「塩でございます」と答えた。家康は膝をたたいて「おいしくするのもまずくするのも塩加減一つということか、なるほどその通りじゃ」と感心しきりだったそうです。

 甘酒にも塩を少々入れるとほのかな甘さが引き立ちます。更に暖かい甘酒に生姜が入ると一層味が締まっておいしいものですね。つまり、塩や生姜は主役ではないが、甘酒を生かす脇役の働きをしているのです。

 そうです。「味のある言葉とは、塩のように目立たず、相手に居場所を与え、安らぎを与える言葉」ですね。

 五十歳で世を去った富山・善巧寺の雪山隆弘師の『ブッド・バイ…みほとけのおそばに』という本の中に味のある言葉がある。入院直後、大阪の父親から便りが届いた。そこにはたった一行「おい隆弘、人間、生きとる間は生きとるぞ」と書かれてあった。雪山師は「嬉しい一言だった。…今日一日今日一日、生きている間は生きている、他に何の不足があろう」と味わったそうです。父の一言で、彼はがんを病む我が身の今日の居場所を発見したのです。「逢えてよかった、ブッド・バイ」、これが彼の最後の言葉です。

 後味がいいですね。後味のよい人生、この隠し味がいいですね。この隠し味が仏法に遇えた慶びでありましょう。


 『善正寺だより』第75号より  善正寺(東海教区 三重組)
 (本願寺ホームページ「寺報の広場」より)

「今日は同い年」


 今月から「一言法話」を「インターネット法話」とさせていただき、住職がインターネットで全国真宗寺院のホームページから入手した法話やエッセーなどを皆さんにご紹介いたします。

 この企画は住職の怠慢ではありませんので皆さまには誤解のないようにしてください。

 住職の文章や表現法に慣れきってしまったライオン寺だより愛読者の生活態度を改めていただくために施す緊急処置です。

 住職としては自分で法話を書きたいのですが、皆さまの自堕落な(失礼)生活態度を改めるため、泣く泣く筆を置く次第です。

 いつまで続くか分かりませんが、皆さまにはしばらくのあいだ規則正しい生活を心がけていただきます。 かしこ


 今日は「同い年」

 「私は長くみてもあと二十年だが、君たち若者はあと五十年は大丈夫」などどいう会話を聞くことがあります。でも、ほんとにそうなんでしょうか。

 たしかに、確率的にはそうであろうと思われますが、それはあくまで「条件付き」です。

 長さ・太さの同じローソクが二本あって、一つは三十分前に、もう一つは五分前に火をつけたとします。

 すると、先に火をつけたほうが早く消えるはずです。しかし、それはあくまで「無風状態」である場合に限ってのことです。

 もし、ローソクが大風の吹き荒れる屋外にあったとしたらどうでしょう。火の消える順番はわかりません。むしろ、後から火をつけたローソクの方が長い(背が高い)ので、風当たりが強くて先に消えるかもしれません。

 最初に「条件付き」といったのはこのことです。

 人のいのちの灯火も、ひとたび「無常の大風」(事故・病気・災害など)が吹き荒れれば、先に生れようが、後に生れようが順番どおりにはいきません。

 つまり、無常の中にありつづける以上、今日まで生きてきた年数は関係ないのです。

 言い替えれば、八十歳のお年寄りも二十歳の青年も今日という時点においては「同い年」なのです。

 だから、今日は同い年なんです。


温泉津西楽寺さんのホームページより
 http://www.ttec.co.jp/~onsai/

「お坊さんてなんだろう」


 フッとした拍子に思ったことがある。「お坊さんてなんだろう」と。自分の場合、十六才で得度式を受けてから、もう十八年が過ぎたことになるのだが、その間、まがりなりにも自分は僧侶であると名乗ってきたわけである。

 しかし、そこで一つの疑問が湧いてくる。「僧籍を取る」と、よく言うが、これははたして資格なのだろうかと。一般に資格というのは何か能力を身に着けた人が、その証明として授かるものである。しかし、自分には得度式を受けた時にそんな能力など何も無かった。皆さんはどうであろうか。何か特殊な技能の様なものを習得して僧侶になられたのであろうか。少なくとも自分にはそのようなものが無かったのである。

 そんな時に思い浮べるのは、やはり親鸞聖人のことである。言うまでもなく、親鸞聖人は九つの時に出家をなされた。一般に世の無常を感じられてのことと言われるが、年令のことを鑑みると、父母の死への思いが出家の決意を固めたと考える方が自然なように思える。純粋な心を持った少年松若丸こと親鸞聖人が父母への思いを胸に仏門をたたいたと思えるのである。当然そこには、仏法の教義に対して、深い理解があったとは考え難いのである。

 では、出家、或いは我々にとって得度式とは何であるかということである。これは、決して特殊な技能や地位を身につけたという免許皆伝、資格承認ではないのである。つまり、これは仏法への入門式に他ならないということを私は言いたいのである。

 そう考えると、私たち浄土真宗の教えに生きるものにとって、道俗の区別というものが極めて曖昧なものであることに気づかずにはおれないのである。親鸞聖人のお言葉「非僧」。そのお言葉の意味の一端に、僧侶を資格とすることへの自戒がこめられていたのではないかと考えるのである。

 また、「非俗」という言葉のなかには、入門式を受けたからには、必ず真の意味での僧侶、人に仏法を流通する身にならなければという決意が底に込められているように思うのである。このように考える時、果たして自分は本当に僧侶になれているのだろうか。もし、かりに親鸞聖人が現代に生きておられたなら、今の私たちの姿を見られてどのようにもの申されるのかなと考えずにはいられないのである。合掌

(大阪教区豊島北組の若手僧侶の会HP「ほくしんweb」より)

「私の好きな言葉」


  私の好きな言葉

「われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず、ともにこれ凡夫ならくのみ」
  聖徳太子『十七条憲法』

 仏教説話の中に、「ある王様が、象を知らない何人かに目隠しをし、象に触れさせ、象とはいかなるものかを聞いた。ある者は象とは柱のようだ。ホースのようだ。大きな葉のようだと。自分の触れたものの思いを象とし、主張し譲ることなくそれぞれに述べているうちに、争論となり喧嘩が始まった」というのがあります。

 私もよく経験することですが、私たちには、真実が何なのかを確かめることなくただ自分の見解のみを正とし、挙げ句の果てに勝ち負けのみの口論に陥ることが多々あります。自分が見、思ったことが正であり善であり間違いのない見解であり、他の見解を愚とする傾向が強く、好き嫌いが激しく、自己中心的に見る癖が強く、見落としが多く、見る場所が異なれば物は異なって見えるのが常であることを忘れてしまうなど数えあげればきりがありません。

 目隠しをした人達の象の印象はそれぞれ間違いではありません。でも、象の全体を表現していることにはなりません。

 聖徳太子は、私たちはみな凡夫であることを自覚するように呼びかけています。私たちの真実を見る目はまことに不確かなものです。だからこそ、自分の思いこみに頼ることなく、みんなと語り合い、語り合う中に物事の善し悪しを確かめていく努力が大切なことであることを示してくださっています。

 意見を交わす時、よくよく太子の意を肝に命じていかなければなりません。

 ポストエイオス研究会HPより  http://www.posteios.com

「葬儀の簡素化に思う」


 最近、葬儀のあり方が随分と変わってきているように思う。特に目立つのが、葬儀の簡素化である。無駄を省くという点からすれば良いと思うが、あまりに簡素化しすぎると大切なことまで省いてしまうことにもなりかねない。

 先日、あるご門徒の葬儀のおり、ご遺族から次のような話を伺った。

 「最初は身内だけで葬儀をつとめようと思っていました。でも今は、ご縁の深い方々にもお参りいただいて本当に良かったと思っています。

 というのも、私や子供達も知らなかった主人の職場での姿や若い頃の話などを聞くことが出来たからです。

 まるで主人が友人達の口を通して、私たち遺族に思い出を語りかけてくれているようでとても嬉しかったです。それに、そういう皆さんの思い出話を伺っていると、有縁の皆さんの心の中に主人がまだ生きているということがありありと感じられてとても有り難かったです」

 この話をしてくださった方には中学生と高校生の二人の息子さんがいる。その息子さん達にとっては、今まで知らなかった父の姿を聞いて、父親をより身近に感じることが出来たのではないだろうか。

 もし、葬儀を身内だけで行っていたならば、このような故人の話を聞く機会を失っていたかもしれない。

 葬儀は、亡き人を偲んで営まれるものだが、同時に残された者のために営まれるものでもある。

 身近な人の死を悼み、亡き人の一生を振り返ることを通して、ひるがえって自分自身の人生を見つめ直し、いのちの行く末を思い、仏法に出遇う大切な機縁ともなる。

 そのような葬儀の大切な意義まで省略しないようにしていきたいものである。


(東京都常榮寺 柘植芳秀師)
築地本願寺HPより転載 http://www.tsukijihongwanji.jp/tsukiji/shinpou.html

「悪い子」はいない


 誰一人、この世にいわゆる「悪い子」で誕生した人はいない。一人ひとり自分の幼いころのことを思い起こしてみればなんとなく分かってくる。

 わが子と出会っていない人はいても親のない人はいない。だからみんな生きている人には子ども時代があった。

 そこで子どもの心がわからなくなったら自分の子ども時代にさかのぼればいい。

 「自分は幼いころどんな場面でどのように親や先生に接してほしいと願っていたのか」

 「独り寂しく両親の帰らぬ家にもどってきたとき、隣のおじさんやおばさんにどのように声を掛けてほしいと願っていたのか」

 「教室の机にうつぶせになって授業を受けていたとき、『起きろ!』と怒鳴り付けるしか関わり方の分からない教師にどうあってほしいと願って堪えていたのか」

 思い起こしてみれば、忘れかけていた子ども心が近づいてくる。

 親も子もみんなはからいを越えてそれぞれ違った重い事実を背負い、この世に誕生している。

 養育意識の全く希薄な親のもとに生れた子。心身にハンディを抱えて生れた子。気後れ気味な性格、勉強がなじめない子。

 にもかかわらず、与えられた生命から逃げる事なく、今日も私たちは、子どもたちは、この事実を背負って生きている。

 だから「悪い子」云々の前に、生きているだけでまず尊く力強いのである。

 あらためてこの原点を思い返して謙虚な心を取り戻したい。せっかく生れてきたのだから、どうせ生きるなら優しく生きたい。


心理・教育カウンセラー 富田富士也氏
築地本願寺HPより http://www.tsukijihongwanji.jp/tsukiji/shinpou.html

それって同罪だよ


 「見て見ぬふりをするのもいじめているのと同じこと」

 いじめとは、「長期間にわたり継続的に、ひとり又は少数のものに対し、心理的又は物理的な攻撃により苦痛を与えること」です。そして、いじめは、マスコミに取り上げられるようなことにまで発展しないまでも、特別な事件ではなく学校生活の中で頻繁に起こっている日常の問題であるのです。

 中学3年の喜多晶子さんの『いじめられた苦しさといじめた後悔』という作文に、

 「いじめ。あなたはしたことありませんか。したことがないといいきれますか。回りのある子がいじめられている時、見て見ぬふりをしてませんでしたか。

 怖いんだよね

かばったり助けたら、次にいじめられるのは自分だと思うから。そんなこと、かっこつけてるとか、良い子ぶりっことか偽善者だって言われるから。だからかばわない。だから助けない。だから見て見ぬふりをする。

 それって同罪だよ  

なんで。仲間に加わってない。だから、僕は・私はいじめてない。そう思っている人はいませんか。いじめられたくない。だから仲間に加わってしまう。そんな人もいませんか。」(『川崎市人権作文集』より)

とあります。喜多さんは、見て見ぬふりをするのも「いじめているのと同じこと」と指摘しています。現実にはその立場の子どもたちが大多数であり、そのことが、いじめの状況を深刻にしているとも言えるのです。

 いじめという社会問題を解決することは、非常に難しいことであると思います。まず個々のいじめを発見し、それを解決しない限りいじめられている子どもにとって問題の解決にはならないからです。「いじめられたと遺書に書くな」といじめられているケースの報告もあり、いじめはますます巧妙になり陰湿化しています。解決のためには、友人や学校、家庭や地域社会の協力が必要不可欠です。

    川崎市長善寺住職小林泰善師
    ポストエイオスホームページより

白色白光


 入院の必要もない程、簡単といわれる白内障の手術ですが、ステロイド服用の私は、「万一失明する可能性あり」と言われつつ十日間の入院で右眼の手術を受けました。不安があり、手術を決断するのに時間がかかりましたが、内科の主治医に「やってみなければ分からない、とりあえず片方やってみたらどうか」と言われ、「他人(ひと)のことだから無責任な言葉」と一瞬思いましたが、「そうだ、若し失明しても片方で見たらよいのだ」と決断したのでした。

 手術後、はじめて眼帯のはずされた時「地球は青かった」という宇宙飛行士の言葉がそのまま私の視野に飛び込んできました。青白く見えました。「有り難うございます、先生の白衣が、シーツが真っ白に見えます」と申し上げましたら「よかったね、しかし僕の白衣それほど綺麗ではないよ」との先生のお返事に大笑いするひとときでございました。私が白いと思い込んでいた白は、実は、黄色味を帯びた、濁った白だったのです。左眼で見る白と、手術を終えた右眼で見る白は違うのです。

 南無阿弥陀仏 ありがとうございます。悲しい思い込みによって本物を見ることができない自分が、光を仰いで真実の世界を知らせていただいた喜びは、何物にも勝る宝物を賜わった喜びです。

 白色が純白に光り輝く世界がありました。間違った色にしか見えず、それを本物と、そしてそれが当たり前と見ていた自分に気付くことができたのは、白内障のお陰だったのです。

 お法を聞かなければ、生涯、濁りの世界を迷い続ける私の姿が知らされることなく過ごさなければなりませんでした。

 白内障手術というご縁をいただいたお陰で、大きい花も小さい花も、緑美しい葉の一枚一枚もすべて輝いて見える世界をお与えいただきました。そして、それに気付かなかった恥かしい私が光に照らされて見えてきました。ありがたいご縁をいただいたのでした。

  善徳寺 (大阪教区 豊島南組) 仏教婦人会会員 田村 幸子さん
  築地本願寺HPより http://www.tsukijihongwanji.jp/tsukiji/shinpou.html

たくさんの宗派


 「花まつり」のころになるといつも思うことですが、お釈迦さまは一人しかいないのに、どうしてたくさんの宗派があるのでしょうか?



 たしかにそうですね。この疑問については昔からさまざまな議論が重ねられてきました。そうして大まかにいうと二つの説に集約されました。

 一つは、釈尊が説いた教えはどれも同じような内容だったが、その説法を聞いた人々がそれぞれ違う受け取り方をし、それをそれぞれに解釈しまとめたので、たくさんの教典が生まれた、というものです。これは「維摩経」に「如来は一音を以て法を演説したもう。衆生は類に随って、各々解りを得た」とあることから考えられたものです。

 また、もう一つは、釈尊が、「対機説法」、つまり聞き手に合わせて教えを説いた、また「応病与薬」、つまり悩みなど個々の問題にそれぞれ最適と考えられる答えを出したため、その悩みや個々の問題の内容によって教えが違っていった、というものです。

 この話は、膨大な教典を漢訳し理解しようとした中国の僧侶たちが訳しながら、その教えの整合性に悩んだ結果 として登場したもののようです。

 しかし、その元となった教典は話がまとめられた地域や編纂された時代がまちまちだったため、もともと矛盾する内容が含まれていたものでした。しかし、翻訳に挑んだ中国の僧侶たちはあくまでも釈尊が一人でその教えを説いたものと考えていたため混乱を招いたものでしょう。

 とはいえ、一応この二つの説でなんとか理由がついた形になったようです。しかし、そこからふたたび「では、釈尊が本当に説きたかった教えは何か」という問題が生じてきて、ここにたくさんの研究がなされ、学派が生まれました。

 どの学派も当然自分たちの信じている教典こそが本当の教えだと信じた(本典)のですが、それ以外の教えを否定することも難しく、「本典に従属する教え」として整理しました(教相判釈という)。

 中国のこうした状況が日本に伝わったため日本でもこの学派の分流が宗派の違いとなって行ったものといえます。

  インターネット築地本願寺新報    2002年4月号より転載

出会いを喜ぶ


一度の誓いが一期の誓いなり。そのゆえは、そのまま命終われば一期の誓いになるによりてなり



 年齢を重ねるということは、体がだんだん衰えていき、思うに任せず、いろいろできなくなる、ということを意味しています。失ったものを思えば思うほど、こころさびしいものがあります。年はとりたくないものですね、という言葉に共感したくなります。

 しかし、年をとることは、まったく一方的に、さびしいことばかりなのでしょうか。もし、そうだとしたら、人生はとてもつまらないものですね。だんだん暗くなるだけのことで終わってしまいます。そこに何か新しい発見というようなことはまったく期待できないのでしょうか。

 釈尊は若さを百パーセント肯定し讃美されませんでした。若さに「若さのおごり」を見いだして、注意を促しておられます。若くて健康な人は、昨日のつづきに今日がきて、今日のつづきに明日がくることを当然のこととして、生きていることが当たり前のように見てしまいます。そこに潜む死の影を見ることはありません。そしてすべて自分の力で人生を動かしていけるように思いこんでしまいます。

 しかし、そういう若者にもやがて老いと病いと死は確実にやってきます。すべての生き物が避けて通ることができない通り道が老いと病いと死です。どんなにあがいてもどうにもならないものです。人間の力を超えています。そのことに気づいてみると、若さと健康と命はたまたま与えられたものであることが知られてきます。それはいつなくなっても不思議でないものであることがわかってまいります。

 そうすると、明日が知れない日々をいただいて生きているのであり、それが「今」という時間であると思い知らされます。「また」会いましょうね、と次回にも会おうと思えば会えるように思って別れますが、「そのまま終わればそれが最後(一期)の出会い」だった、ということになります。今できることは何か、を常に考えるべきで、未来にできることを期待するのは、今を大切にしていないということです。

 今こうして出会えたことを喜ぶことです。いつふたたび会えるか確かな保証はないのですから。

武蔵野大学学長 田中教照師    築地本願寺ホームページより

「人間と動物のちがい」


  犬のほうが利口では!?

 子どもの頃、父に「そんなことをしていると、犬や猫と変わらないじゃないか」とか、「畜生にも劣るぞ」といってしかられたものです。「冗談じゃないや、犬や猫と一緒にされてたまるか」と思っていました。

 しかし、このごろ犬のすごさに驚くことがあります。うちで飼っている北海道犬は十三歳になり、耳もずいぶん遠くなって、足もよたよたと引きずるようにしています。そばまで行って呼んでも聞こえないほどです。

 それでも、犬はそんな自分の姿をぼやいたり嘆いたりすることがありません。不自由になった老いをそのままに受け入れているようです。そんな犬の姿を見ながら、自分の老後に思いを重ねてみるとき、「こいつはすごいなあ!」と感心してしまいます。

 さらに、うっかり夕食をあげるのを忘れてしまい、翌朝あわてて持っていくことがありますが、犬はケロリとした顔で尾っぽをふって迎えてくれます。夕べのことは少しも根にもっていないようすです。食べ物の恨みは怖いと言いますが、私にはそんな芸当はとてもできません。

 不機嫌な顔をして、へそを曲げ、ふて腐れて見せるでしょう。あるいは意地を張って、食べずに抗議をするような愚かなこともしてしまいそうです。なるほど、犬のほうが利口だなと、父の言葉を思い起こします。

  人間だけが迷っている

 またコイにも驚くことがあります。池の中に平らな石があるのですが、その上に餌がのってしまうと食べられないことがあります。その餌を見つけた一匹のコイが身をすり寄せて何度か挑戦します。そうするとその波で餌が流れ落ち、そこにいたコイがすまして食べてしまいます。

 しかし、それでも池の中は平和です。「それは俺のものだ」などと言って、人間のように争うことはありません。取ったほうも取られたほうも何も気にしていないようです。実に平和な顔をして仲良く泳いでいます。 自分のしたことにとらわれて自己を主張し、怒ったり、愚痴ったり、裁判をしたりする人間が愚かしくも思えます。

 芭蕉は「ものみな自得す」と言っています。なるほど犬やコイは自分の身に降りかかる出来事はどんな事でもそのままに受け入れているのに、人間だけが自得できずに迷っているようです。犬もコイも人間より達観しているようなところがあります。

  自己中心は罪のもとだ

 しかし、彼らには恥や罪の意識はありません。犬はどんなに破廉恥な行為をしても恥ずかしそうな顔をしないし、悪いことをしても悔いたり悩んだりすることもないようです。

 なぜ、犬には恥や罪の意識がないのでしょうか。犬は悪いことをしたという思いをもたないからでしょう。悪いことをしたという思いは教えによって知らされます。つまり、教えがなければ悪いことをしたという自覚はなく、そのために罪の意識も恥じる心も起こらないということになります。

 作家の三浦綾子さんは「自己中心は罪のもとだ」と言い、「自己中心であればあるほど、神を嫌う。神を見ようとはしない。神を無視してやまない」と言います。神を見ようとしないとは、自分を中心にして神の教えを無視してしまうということでしょう。

 仏教でも末法の世には人々の心から仏の教えがなくなるといわれますが、それも、人間がますます自己中心的になるからでありましょう。しかしエゴの自己中心性を問わずに教えを無視するようになれば、自分が中心になるために何をしても悪の自覚はなく、恥や罪の意識ももてなくなるでしょう。そうすると、人間は動物よりも浅ましいものになるのではないでしょうか。

 親鸞聖人は「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり」と詠まれています。蛇やサソリのような心とは、本願の大悲によって見抜かれた人間の本性でありましょう。ところが、その本性は自己中心の目によっては覗き見ることのできない心の暗い奥底に隠されたものであり、仏の教えを聞くことによって初めて知らされるものです。

 だから、教えによって自分もまた危うい本性をもつ身であることを気付かない限り、悪の自覚ももてないことになります。「罪を罪と感じないことは最大の罪」ともいえるでしょう。


横須賀市常光寺 鶴山信行師  本願寺「みんなの法話」より

「こんなお寺の祝賀会、見たことも行ったこともない」


 先月末、今月十二日(日)に開催する来恩寺「秋の特別法座」のご講師、元フジテレビアナウンサーで姫路市善教寺の松倉悦郎(結城思聞)師の住職継職法要に出席させていただきました。

 二日間にわたる大法要でしたが、私は二日目の継職法要と祝賀会に出席いたしました。盛大な法要もさることながら、夕刻に行われた祝賀会には「さすがは松倉さん」と声を掛けたくなるぐらい(本当に掛けてしまいましたが…)豪華な祝賀会でした。

 会は聖路加国際病院理事長の日野原重明先生の記念講演で幕が開きましたが、今年九十五才になった先生はますますお元気で、三年先まで講演会などの予定がビッシリ入っておられるとのことでした。当分亡くなる気はないようです。

 その後フジテレビ露木茂氏の司会で会は進み、松倉さんの友人たちの挨拶やピアノの演奏などで大いに盛り上がりました。

 私が憶えている方々を紹介しますと、挨拶は早稲田大学前総長の奥島孝康氏に始まり、阪神タイガースシニアディレクターの星野仙一氏、サントリーラグビー部サンゴリアス監督の清宮克幸氏、ヱスビー食品スポーツ推進局長の瀬古利彦氏、早稲田大学名誉教授で妙法院(三十三間堂)門主の菅原信海師などでした。

 星野さん以外は早大関係の方々でしたが、星野さんによると松倉さんとは学生時代からの学校を超えた付き合いだそうで、若かりし頃のエピソードなどを面白く話してくれました。

 瀬古さんは愉快な人で、松倉さんから「継職するので姫路まで来てくれないかと」お誘いを受けた時「なんで姫路まで軽食を食べに行くんだろう」と勘違いをしていた話など、笑いがいっぱいのスピーチをされました。

 ミニコンサートは司会の露木さんも参加したハワイアンバンドのナレオ・シックスアイランズに始まり、ミュージカル俳優沢木順氏(松倉さんと同期)の迫力ある歌声や、ピアノ・チェンバロ奏者福田直樹氏の華麗なるピアノ演奏など、普通では考えられない取り合わせで会場は拍手の渦に包まれておりました。

 会場入り口には著名人の花籠がずらりと並べられており、こちらも私の憶えているところではプロ野球関係では「長嶋茂雄」「星野仙一」「王貞治」「中村勝広」「原辰徳」「野村克也」の各氏から。芸能関係者からは「吉永小百合」「タモリ」「土田早苗」さんなどの花籠がありました。

 祝賀会の最後は松倉さんから奥様の亮子さん(善教寺前住職。松倉さんは奥様から住職を継いだのでした)に贈る「詩の朗読」でした。心温まる素敵な詩で、奥様を亡くされた星野さんや故逸見政孝さんの奥様も感慨深げに聞き入っており、松倉さんに「コピーをちょうだい」とお願いしましたが「これだけはダメ」と断られてしまいました。

 松倉さんのお誘いで二次会まで参加させてもらいましたが、瀬古さんや沢木さんとも親しく話をさせてもらい、最後は早大OB「稲門会」の体育会系親睦会のような飲み会になり、私もみなさんと一緒に肩を組んで早大校歌を歌っておりました(私の知っている歌詞は「都の西北早稲田の森に」と最後の「わせだ わせだ わせだ」だけでしたが…)。

 二度とないご縁をいただいたと感謝しております。

「郵政民営化反対議員復党」


 昨年の衆院選挙で、郵政民営化に反対した十一人の議員が、このほど自民党に復党することが決まったが、これに対してさまざまな批判の声が上がっている。私も第一印象としては、

@「政治家の信念は当てにはならない」
A「政治家の本音は選挙に勝つことと、お金が何よりも大事だと思っている」
B「国民の目よりも、自民党の目の方が大切と思っている」ことなどが頭に浮かんだ。

 自民党が、先の選挙で離党した議員を(落選組も含めて)急いで復党させようとするのは、接線が予想される来年の参院選挙に勝つためというのが最大の理由だろうし、現職議員十一人が復党すれば、約二億五千万の助成金が増額され、その期限が今年中というのもそれを急ぐ理由になっているのは否めない。

 そうした政党側の思惑に、個々の議員がいかに無力かもわかった。「復党させてやる」という自民党のやり方に、「いのちの恩人です」といって感激した議員や、「もともと郵政民営化は反対ではなかった」と、いともあっさり方針転換してしまうベテラン議員までいて、ずっこけてしまうシーンが続出なのだ。

 それを見るにつけ、当世の人心の乱れを思うにつけ、要は、行き当たりばったりの人生であり、おのれ自身のそのときの都合と、欲と、刹那せつなの楽しみを追うだけの人生でしかない人がほとんどなんだと、ほぼ確信できるのだ。

 人としていかにあるべきか、自分の短い一生をどう意義付けるか、といった視点が欠落していると思うのだ。

 生涯を通してゆるぎのない価値観のもとに自分を見つめていく、それが宗教なのだが、そうした意味の宗教がまさに今見失われている。

 池田市 正福寺住職 末本弘然師  インターネット「正福寺だより」より
  http://www.eonet.ne.jp/~showfuku-ji/

「因幡の源左さん」


 昭和のはじめに因幡(現在の鳥取県)に源左という念仏者がおりました。

 連日の雨に村人達は、空を恨めしそうにながめていました。「なんといういまいましい雨だ」「これじゃあ畑仕事もできん」村人達は、口々に愚痴をいいます。

 そこへかさもつけずにずぶぬれになった源左さんが通りかかりました。この雨にさぞかし困った顔をしているかと思いきや、なんだかうれしそうです。不審に思ってたずねてみると、「この雨ではじめて気づいたが、鼻が下向いててよかったなあ」と、答えたそうです。もし鼻が上むいてついていたら、雨が鼻に入ってたいへんです。

 またある時、家で縄を編んでいたときのこと、ふと手を止めてじっと手を見つめている源左さんに隣にいた奥さんが、「あんた、とげでも刺さったのかい。」とたずねると、「いいや」と、首をふって、また手を見つめています。

 しばらくしてお念仏をとなえながら、「鎌や鍬なら使えばすり減って、一回や二回は修理して使えるが、すぐにダメになる。それにひきかえ、このおらの手はなんぼ使ってもすり減るどころか、皮が厚くなって使いやすくなる。なんとありがたいことかなあ。」と、よろこんだということです。

 いわれてみれば、あたりまえのこととして気にもとめない事柄もあらためて見直してみると新たな発見につながります。

 隣が車を買い替えたのに、近所に家が建ったのに、お向かいの家の子供はどこどこの大学に受かったのに、それなのにうちは…。

 私たちの生活は、目を外にばかりむけて不満だらけの毎日です。今、在ることのすばらしさを忘れてしまっているような気がします。そういえば、仏さまの眼は半眼といって、半分外を見て、半分は自分自身をみつめていらっしゃいます。

 もう一度、自分自身を見直してみたいものです。

    西郷教信 師   大阪市 津村別院ホームページより

「人をよりどころにする危なさ」


 お釈迦さまは、入滅する少し前に弟子のアーナンダに、「この世では自らを島とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」と仰っております。

 また、歎異抄では親鸞聖人が、「わが弟子、人の弟子」といった争いがあることを嘆いて「私、親鸞は弟子の一人ももたない。なぜなら、私の力で人が念仏を申すようになったのであれば『私の弟子』と言うことが出来るでしょう。しかし、みんな阿弥陀さまのおハタラキによってお念仏を申すようになったのですから『あの者は私の弟子だ』などと言うことは、とんでもないことなのです。」と仰ったとあります。

 お釈迦さまと親鸞聖人、お二人とも「人」につくこと、「師」に絶対服従することの危うさを述べられているように思いますし、「法」や「阿弥陀さま」といった真実をよりどころにすることが本当なのだということを示されておられるのです。

 このように真実をよりどころとする、あるいは価値観とする生き方が仏教徒の生き方ですが、昨今の「新宗教」や「新々宗教」、あるいは「カルト」と呼ばれる多くの団体は、代表や会長・教祖といった「人」をよりどころと教え、絶対服従を求めます。

 仏教にも師弟関係はありますが、この場合の「師」は、自分に真実の「法」を教えてくれる、あるいは真実へと導いてくれる、言うなれば「先輩」なのです。

 真実に出遇った人は「師」を大事に思い、尊敬いたします。しかしそれは強制でも命令でもなく、喜びとして湧き出てくる自然な感情なのです。

 教祖や代表に絶対服従を求める教団と、批判を許さない教団は危ないと思います。宗教団体や教団を見分ける一つの手がかりとなると思います。

「親鸞一人がため」


 親鸞聖人が比叡での行を諦められ、一人で山を下りて六角堂にこもられたり、これもまた一人で法然上人のもとに雨の日も風の日も、百日間も通い詰めて「生死出ずべき道」、つまり「迷いを断ち切る道」を尋ねられたと聞いておりますが、叡山時代の聖人には友人や志を同じくする仲間がいなかったのかと疑問に思います。

 当時の叡山には多数の僧侶が寝食を共にし、それぞれが励まし合いながら共に悟りを目指して共同生活をしていたと想像するのですが、最終的に聖人は一人で山を下り、一人で法然上人のもとを尋ねられたのでした。

 叡山を下り、法然上人や法然上人の門下生とでも言うのでしょうか、念仏の仲間と暮らしていた時代のエピソードは御伝抄などに数多く残されておりますが、叡山時代と、法然上人と出逢われるまでの聖人に「仲間」の存在は見受けられません。

 これは、叡山が自力による「悟り」、つまり自分の行というものが悟りの条件であるのに対して、法然上人の勧める阿弥陀仏による念仏の「救い」は、自力を必要としない、むしろ阿弥陀仏の救いの上には「自力」という思い上がりの心を捨てなければならないという立場の違いだと思います。つまり、「悟り」は個人のものですが、「救い」は万人のものであるという悟りと救いの構造の違いであります。

 しかし親鸞聖人は、万人のためであるはずの阿弥陀仏の救いを「親鸞一人がため」と受け止められました。これは阿弥陀仏に照らし出された自己の本質、つまり煩悩だらけの最低最悪の自分という自覚の上から発せられた言葉です。

 その一方で聖人は「自分が救われるという事は万人が救われる事である」という確信もまた、阿弥陀仏の救いの本質としてお持ちだったのです。

「人生に代理人なし」


『おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり』(歎異抄)

 緑の風薫る、親鸞聖人ご誕生の月を迎えました。

 もとより、この世に生まれられたこと自体をよろこびお祝いをするというのが、常でありましょう。しかしその人はどのような姿勢で人生を生き、命を全うされたか。そして、われわれに、何を示された人なのか、そのことを抜きにして、その誕生をよろこぶことではないといわねばなりません。

 その意味で、親鸞聖人の生きる姿勢、とくに人間関係のあり方に大きな示唆を与えてくだされた歎異抄の言葉の意味を確かめさせていただきたいのです。

 「おのおのの」これは八十歳を越えられた親鸞聖人が、関東から京にのぼった人に、初めて口をついて出た言葉です。これは、「お一人おひとりが」という言葉です。単に「みなさん」ではなく、一人ひとりに真向きになって対面された言葉なのです。

 「人生には代理人はいない」という言葉に出会ったことがあります。本当にその通りです。人間は一人ひとり、顔もちがえば、経験もちがうのです。言葉を変えれば、その人でなければならないものがあり、それぞれ輝かなければならないいのちなのです。

 親鸞聖人は十以上の国をのりこえてきた人に「たづねきたらしめたまふ御こころざし」と云われました。「しめ」も「たまふ」も「御」も、まぎれもしない敬語であります。親鸞聖人は、関東から訪ねてきた人、一人ひとりに敬語で迎えられたのでした。

 日本の古代から、少なくとも江戸時代までの人間関係は「タテ社会の人間関係」といわれるものであるといわれた人があります。

 そのような中で、この親鸞聖人の人間に対する敬愛の言葉は現代において、まことに深い意味をもつと思われます。そして、このような人間関係への姿勢は、本願にうなずいた念仏よりもたらされたものであることを、しかと受け止めるべきでありましょう。


 元築地本願寺輪番 中西智海師   築地本願寺ホームページより

「人間が恐ろしい」


 タクシーに乗りますと、結構話し好きな運転手さんがおられます。ある時のこと、乗車拒否と言うことがタクシーの中で話題になりました。

 「タクシーにはどんなお客さんが乗られるかわからんから大変ですね」
 「うーん、そりゃまあそうですけど、わしら手をあげたお客さんがあったら絶対止めなあきません」
 「へー、そうですか」
 「そらぁ、そうせんかったら、もし会社に乗車拒否の連絡が入ったらどんな事情であろうと、すぐクビですわ」
 「それは厳しいですね〜」
 「わしはまだ経験はないけど、運転手仲間ではえらい目に遭うてまっせ」
 「そら怖いこともあるんでしょうね」
と言うような話題になったんです。

すると、運転手さんがバックミラーを見ながら、
 「その点お寺さんはよろしいですな」
 「えっ、何がです?」
 「お寺さんは死んだ人が相手やもん、絶対怖い目にあうことありませんがな」

 なるほど、そうですよね。生きてる人間が恐ろしい。煩悩を抱えたこの身ほど恐ろしいものはありません。何をするやらわからんのですから。それなのに、亡くなった人を恐ろしいものにしているのは何なのでしょう。

 亡くなったお方の知らせを受けると、知らず知らずに理由探しを始めます。たとえば、高齢の方が亡くなると「そらもう歳やもん」、病弱なお方ですと「そらあ弱かったからな」、仕事にバリバリ打ち込まれたお方ですと「そらあんな無理を重ねたらしょうがないわ」。

 理由探しを始めるのは、亡くなったお方には当然の理由があって、自分には当てはまらないと思いたいからなのです。そうして死を遠ざけておこうとする。この死を振り払おうとする心が、死者を恐ろしいものにしているのです。

 この娑婆に生きる限りは、必ず終わってゆかねばなりません。何もかも失ってゆかねばなりません。どれ程に死なぬ努力をしたとしても。そのことを身をもって示してくださったお方こそ、亡き人でありました。

 命終わってゆかれたお姿に接する時こそ、わが命の行く末をあらためて思わせていただく、そういうひとときでありたいものですね。

大阪市平野区光西寺さんのホームページより
 http://www.oct.zaq.ne.jp/kousaiji/takusi.htm

「浄土真宗のお盆」


 お盆の行事は「仏説盂蘭盆経」というお経がもととなっており、命の尊さや欲を離れた施しの大切さを教えてくれるものです。しかし、一般的には盂蘭盆経にはない迷信的・俗信的な考えがはびこっておりますので、世間で言われているお盆に対する考えの間違いを指摘し、浄土真宗の正しいお盆の迎え方をお知らせいたします。

 間違い@「亡くなられた方は『餓鬼道』という迷い(飢え)の世界に全員落ちている」

 浄土真宗の考え方は、亡くなられた方はお浄土で仏さまとなられたと考えております。

 間違いA「お盆は亡くなられた方が年に一度帰ってくる」

 この考え方は「帰ってくる」のでなく、死者をケガレと考え、年に一度だけ帰るのを許すのです。浄土真宗は仏さまとなられた故人は、いつも私と共にいてくださると考えます。

 間違いB「全員『餓鬼道』という飢えの世界に落ちているから、ご馳走を用意しなければならない」

 故人は餓鬼道に落ちておりませんので特別なことをする必要はありません。餓鬼道という欲深い世界に落ちているのは生きている私であったと気付くことが大切です。

 お盆のお飾り

 浄土真宗ではお盆だからといってお仏壇や家の中に特別な飾りを必要としません。

 一般の法要と同じように菓子や果物といった供物をお仏壇にお供えし、お花やローソクを用意すれば立派なお飾りなのです。

 故人を餓鬼道に落ちていると考える人々は、お盆の四日間だけ家に帰ることを許すため、迎え火や送り火を焚いたり、お仏壇以外に精霊棚を作り野菜を供えたり、ナスやキュウリに足を付けてみたりと特別なことをしておりますが、そういうものをいっさい必要としないのが浄土真宗です。

 故人はお盆の時だけ、年に四日間だけ帰ってくるような迷いの存在ではないのです。

 常に私のそばにいて私を導いてくれている仏様と受け止めておりますのが浄土真宗ですので、普段と同じでよいのです。むしろ普段と同じでなければ故人を冒涜することになってしまいます。ぜひ浄土真宗のお盆をお迎えしましょう。

 お盆のお飾りが気になる親戚の人などには、このページを見せて浄土真宗の考え方を理解してもらいましょう。

「家に二つのお仏壇」


Q.我が家には私の家のお仏壇がありますが、このたび、宗派の違う妻の実家のお仏壇を引き取ることになりました。どうすればよいでしょうか。

A.久しぶりに「仏事の迷信Q&A」を掲載します。
 今回のご質問は、少子化の影響で家庭環境が多様化する中で発生したご質問で、最近よく受けるご質問です。心してお聞きください。

 お仏壇は本来、自分が信仰する宗教の御本尊を安置する場所です。ですから、家族みんなが同じ宗教を信仰しておればお仏壇は一つで結構なのですが、家族の中で違う宗教を信仰する者がおれば、お仏壇が二つあっても不思議ではありませんし、信仰をやめさせる強制力はだれにもありません。

 海外では家族みんなが同じ宗教を信仰している家庭が減少しており、お墓にも十字架(キリスト教)や法輪(仏教)・下がり藤(浄土真宗)のしるしが混在している墓地もよく見かけます。

 「個」を重要視する欧米ではすんなりと受け入れられる光景ですが、「家」を重要視する日本ではなかなか理解できない光景です。

 今回のご質問の背景には、欧米のような個人の信仰とは別に、日本の「男系の長子を優先する」考え方があるようです。天皇家の問題にも通じるものがあります。

 これは難しい問題です。お仏壇やお墓のように形のあるものだけでなく、仏事を主宰する者は誰かという問題も含んでいるからです。

 私の場合は、個人の信仰を大事にしますので、ちょっと気が早い気もしますが、将来、長男の嫁が一人っ子で、親の世話や仏事の主宰をしなければならないといった場合は、喜んで協力したいと思います。

 「先祖が大事にしてきたお仏壇を私も大事にしたい」ということであればお仏壇を置くことも許すでしょう。これは「もし立場が逆であれば」を考えるからです。

 このような問題の解決は、時間を掛けて考えるか、次の代に任せればよいと思います。早急に解決せねばならない問題ではないと思います。

 迷信を気にする方に一言だけ言っておきますが、家にお仏壇が二つや三つあっても何の問題もありません。同じ仏教ですので。それよりお仏壇と神棚が同居している方がおかしいのではないでしょうか。

浄土真宗のツボ

 指圧や笑いにツボがあるように、浄土真宗の教えにも外してはならないツボがあるように思います。
 今回から数回にわたり、そんな浄土真宗のツボを紹介したいと思います。


「浄土真宗には祈りがないというツボ」


 浄土真宗には祈りがありません。

 お仏壇に手を合せ、南無阿弥陀仏とお念仏を称えるのも何かを祈ったり、お願い事をしているのではありません。

 他宗派ではご先祖や亡くなった方の冥福を祈ったり成仏を願ったりしているようですが、浄土真宗はご先祖や故人は、私を導いてくれる仏さまとなられたと受け止めますので、そのような人たちに、生きている私たちが何かをしてあげるといった思い上がりの気持ちは大変失礼なことです。

 また、霊を鎮めるという意味でお参りをしていたとすると、ご先祖などは、祟りを引き起こす悪霊のような存在になってしまいます。

 親鸞聖人は歎異抄で「親鸞は父母の孝養(追善供養)のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」と言い切られておりますように、ご先祖や故人の供養のためのお参りは浄土真宗にはありません。

 また、自分の希望や願いを叶えるために行うものでもありません。「病気が治りますように」とか、「受験に合格しますように」といった、自分の都合に合わせたお参りも浄土真宗にはないのです。

 私たちのお参りは、祈りではなく、見返りを求めない感謝の行動なのです。

 祈りには見返りを求める気持ちが存在します。「これだけお参りしているのだから、きっと良いことが起こるだろう」といったように…。

 私たち浄土真宗には見返りを求める祈りはありません。阿弥陀さまは、私たちが祈ったから動くような仏さまではないのです。むしろ「祈り」に込められた我執・煩悩に気付かせてくれるのが阿弥陀如来さまなのです。

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